富士通将棋部あれこれ その2



2012/1/20 記:大泉 紘一
(文中で法人名は敬称を略させていただきます)

2-1.将棋部長

 企業の将棋部活動の要となる将棋部長について、追ってみたいと思います。

 1965年に入社した当時の川崎将棋部長が石垣課長補佐であったことは前にも書きました。 その後鶴田光男氏鈴木新治郎君甲木俊雄君と続き、 その次の黒木伸一君の時に各地将棋部が合同し、 黒木君が最後の川崎将棋部長ということになります。 石垣さん鶴田さんの間に誰かが部長を務めたかもしれませんが、 記録がありません。

 一方本社は1968年の永田虎雄さんから、 新屋忠さん小幡喬士さん小杉昌史さんと続き、 現在の川妻さんは6代目で5代目は筆者です。
 この間幹事長的な役割を果たして下さった方に、 西下重雄さん名取秀弌さん島元勇君奥村友朗君がいます。 奥村君以後は幹事の仕事を分担しはじめましたので、 「幹事長」という感覚は難しく、しいて言えば 主将の島達郎君がその役割を担っているのでしょうか。

 初代永田部長は、 お願いした経緯もあって部員とお指しになったことはありませんが、 節目のイベントの際には「終了時刻」を見計らっておいでになり、 薩摩料理店(永田さんは鹿児島語出身)で皆にご馳走して下さいました。 棋力とは無関係ですが、将棋部長としてのご功績を考え、初段免状をお取りして贈呈しました。

 1970年に新屋さんが外国部の課長から次長に昇格されますと、 永田さんから「僕はもうお役御免でいいだろう」のお電話があり、 2代目として強い将棋部長(二段免状ご所持)の誕生となりました。 職団戦には必ずと言っていいほど顔を出され、部長自らご出場でした。 新屋部長はその後本社内の関係会社に出向されましたが引き続き将棋部長は続けていただきました。

 1979年に新屋さんが別の会社へ出向され、場所が遠いため部長交代となりました。 新屋さんのご指名もあり、将棋がお好きな小幡喬士氏を部長にお迎えしました。
 ご就任後小幡部長は1983年に「統括部内将棋大会」を開催され、 ゲストに蛸島彰子女流前名人(当時)を招かれました。 その日、小幡統括部長自ら女流名人の指導をお受けになり、 予想外の(失礼)完勝となりました。 この実績で初段免状と蛸島名人直筆の色紙「続ければ人生」を獲得されました。 そしてこの日を以て禁煙とされ、「続ければ人生」の色紙を前に、今なお禁煙をお続けです。
 また小幡氏はご自宅の応接設備の一環として、将棋コーナーをお持ちです。 あえて厚い盤でなく、足付の3寸盤を低い卓の上に載せて椅子席での対局という、 お心くばりをなさっています。 筆者も一度伺ってお相手をしました。二枚落で完敗でした。

 1984年に小幡さんが名古屋へ栄転されますと、 小杉真史氏に部長をお願いしました。 小杉氏新屋部長のころ職団戦にご出場いただき(当時課長)、 管理職として3人目の勝星をあげられました。
 小杉氏はご退職後、横浜のサロンにご参加でした。 お仲間から 「君は元富士通の将棋部長だったそうではないか。次回の講演は君が講師で将棋の話を・・」 と頼まれたそうです。 富士通将棋部長の看板は重いようでした。 しかも小杉部長は、殆ど手ずからとも言える方法で、 棋界情報・将棋のエピソード・富士通将棋部の現況等の原稿とやさしい詰め将棋3題を用意されて講演に臨まれました。 予定を30分も超過して、 誰も退屈せず(参加者は将棋のズブシロが大半なのに)3題全問正解が出て、 全員が1問は解けるという大盛会でした。 2011年の話ですが、 ここでも前将棋部長が富士通将棋部の名を上げて下さっていることを感じました。

 1989年、5年間の大阪勤務を経て東京へ帰任しますと、 小杉部長から「君が帰任したのなら将棋部長を」のお声がかかりましたが、 ご好意的な部長に退いていただく理由はなく、 辞退して継続をお願いしました。

 1990年、小杉氏の大阪ご栄転でとうとう将棋部長を引き受けることになり、 その後1999年の筆者の定年で現在の川妻部長と交代し現在に至っています。

 川妻さんと筆者で四半世紀近く将棋部長をしている関係で、 小杉さん以前の部長に馴染ある方が少ないと考え文章にしました。 本日の部隆盛を導いた過去の部長さん方にも目を向けてください。

2-2.職団戦初優勝

 1980年代後半に赤畠卓君が入社し、初めての本格的強豪の入社となりました。 その後1990年代になると、 島達郎君(現主将)・出澤浩樹君浜信一郎君重田君(退職)・喜多全好君と言った超強豪が入社し、 入社後の進境著しい伊藤康晴君もいて「A級安定勢力」を脱して、 「強豪企業」の様相を呈してきたことは前にも書いた通りです。 佐藤忠秀氏はじめ過去の主力選手(筆者もその一人)は軒並み2軍・3軍行きとなりました。

 そして、このメンバーが富士通に初優勝をもたらしました。
 1994年春のA級で(この期はまだS級が無くA級が最上位)、 上記のうちの赤畠君島君出澤君浜君重田君の5人が出場して、 決勝戦に進みました。 決勝戦を観戦していますと、私クラスの目で見ても優勢な局面が多く、優勝濃厚となってきました。 余談ながら少し慌てました「優勝すれば祝勝会をしなければならない。金の持ち合わせは?」です。 すぐに居合わせた鈴木新治郎君(当時の川崎将棋部長)と相談すると、 2人で10万円はあると分かり、安心して(?)優勝を念じました。
 結果は見事優勝で感激を味わい、近隣のスナックに場所を変えて祝賀会をしました。 20名程度が参加し、お店は優勝を祝して紅白のワインを差し入れて下さいました。

 この後、67期からA級の上にS級を作ることになり、 当社からは喜多君・幹事長の奥村君それに筆者が出席した会議で現行のS級が出来ました。 結果的に最高優勝として最後のA級優勝を富士通が獲得したことになります。

 S級ができてからは、 67期アルゴリズム研究所・68期リコー・ 69期毎日コミュニケーションズ・70期プロセス資材と毎期優勝チームが変わる混戦状態となりました。 続く1996年秋の71期は「連覇が無い」ジンクスが続けば富士通の番かという状況でした。 1日記者となった藤森奈津子三段(当時)のインタビューも受けました。
 前回の5人のうち重田君が退職しましたので、 代わりに伊藤康晴君が加わってのチームでした。 しかし、伊藤君が渋滞に巻き込まれて間に合わず、 2軍の出るA級は試合が午後からのため朝は選手が誰も来ておらず、 目ぼしい代理選手が居ませんでした。 急遽A級選手ながら「将棋部長の責任」で来ていた筆者が伊藤君に代わって出場しました。
 弱い筆者を抱えたことが皆さんの奮起を呼んだのでしょう、 S級初優勝となり毎期優勝交代記録を5期(67〜71)に伸ばしました。
 この優勝カップは体育館の棚に飾ってあります。


体育館の棚に飾られたS級優勝カップ

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