富士通将棋部あれこれ その1



2005/8/9 記:大泉 紘一
(文中で法人名は敬称を略させていただきます)

1-1.プロローグ

 中谷君から、 将棋部創設時のことを文章にしてほしいという要望を戴いてから1年余が経過してしまいました。 ぼつぼつと書き綴りますのでよろしくお願いします。

 初めて部が発足してから、アマ団体戦の最高峰まで駆け上った当社将棋部は、 強さばかりでなく長期にわたる部誌の発行・ 20年余の歴史を有するオール富士通合宿・ペンクラブでの活躍・大勢の指導員の存在等、 僭越ながらアマチュアのお手本とも言える存在と思います。 川崎を中心に「棋遊」が30数号、 それを継続するかのような明石中心の「棋の趣」も50号を超す発行がありました。
(しばらく途絶えている「棋の趣」ですが、 ぜひ継続を!棋士の先生がサインでお使いになる言葉に「継続は力なり」があります。)
 棋遊以後のことはかなりの資料が残っているようですが、 それ以前のことを中心に記憶を辿ってみたいと思います。 ご高覧の皆様から追加やご指摘をいただければ幸いです。

1-2.1965年頃

 1965年に富士通(当時は「富士通信機製造」)に入社した頃は、 川崎にのみ将棋部があり本社にはありませんでした。 当時の川崎は石垣課長補佐が将棋部長で、 佐藤忠秀さん赤荻誠次さんもメンバーで、 他に東大将棋部のレギュラーだった石井康雄氏も居られました。 石井氏は当時プログラム課長で、後に東京情報大学教授になられました。 鵜飼さんとご一緒に、プロジェクトX(故池田専務を称える構想)にも出演されました。

 川崎の将棋部がいつ発足したかはもはや調査できないと思いますが、 佐藤忠秀氏の入社が1951年で石井康雄氏の入社が1954年ですので、 そのあたりに部が発足しているのではないかと推測されます。

1-3.本社将棋部職団戦初参加

 本社将棋部の職団戦初参加は1965年秋(第11回大会)でした。 本社には将棋部はありませんでしたが西下重雄さん(本社初代幹事長)が中心になって 「部を作る前にまず職団戦に出よう」ということになりました。 当時の人事部門に相談をかけますと 「休日に参加費自己負担で出場するなら認める。チーム名に社名を出してもよい」 と厳しい条件ながら出場が認められました。
 会場は東京体育館で、参加費は1チーム5千円でした。 ちなみにこの年の大学卒の初任給は2万3千円余でした。 メンバーは石井康雄さん佐藤忠秀さん新屋(あたらしや)忠さん西下重雄さん麻生達夫さん(後に名古屋へ移られました)・ 大泉紘一の6人でしたが、 石井さんがお仕事の関係で出場できなくなりました。
 当時は参加申込書に段級を表示することになっていましたので、 石井佐藤大泉と3人の四段を擁する富士通は初めからBU級(今のC級)に付け出されました。 3回戦進出で些少なご褒美に与りました。

 メンバーが皆多忙な中、内勤の多い西下氏が幹事役を引き受けて下さったことに、 今なお感謝の念を強く持っております。 その後も職団戦へ参加しましたが、出張者が出ると選手に困ったり、時として不出場のこともありました。

 1966年には川崎市の職団戦に、 本社から応援を出すことになり川崎2名(石垣将棋部長赤荻さん) 本社3名(佐藤さん西下さん大泉)で出場しましたが、 A級予選リーグ2勝1敗で決勝進出は出来ませんでした。

 この試合は今でも「盤・駒持ち寄り」です。 あの日は私が「1面持参」と佐藤さんから命ぜられていました。 前夜、某女性とかなり遅くまでデートし「あわや」と思ったのですが、 「盤・駒持参」を思い出し、涙を飲んでタクシーで彼女を自宅まで送り、 盤・駒を自宅まで取りに帰りました。 その後その女性とは会う機会もなくそのまま消息もわかりません。 残念な話でした(余談どうもすみません)。

1-4.いよいよ将棋部スタート

 1968年になると職団戦も回数を重ねて一応活動として定着したのを機会に本社にも将棋部を作る画策をしました。
 西下さんが人事課と折衝してくださって、 ほぼOKとなり貿易部の新屋課長(初回出場のメンバーで二段)に 将棋部長をお願いするつもりでした。 ところが人事課から「将棋部長は職場の部長やむを得なければ次長にお願いしてほしい」と言われ困りました。 やむなく父の友人の永田虎雄国鉄営業部長を拝み倒し、 部史上唯一の「駒の動きをご存じない」将棋部長の誕生となりました。
 そしてこの秋から参加費を会社の文体費として支出していただくことになりました。 そこへこぎつけるまでには、 西下幹事長新屋副部長永田部長の大層なご尽力がありました。

 2年後には新屋さんが次長に昇格され、 漸く有段者の将棋部長をお迎えすることになりました。
 今でも覚えています新屋さんのお言葉に 「佐藤大泉は強くてA級維持には不可欠だが、 力不足でA級優勝には足手まとい。 佐藤大泉が1軍でなくなる頃にわが社の黄金時代が来る」がありました。
 悔しいので言い返します「新屋さんはさして強くなかったが 富士通将棋部の将来を見越す見識は大したものです」。 お言葉のとおり、 1994年春の富士通初優勝は若手チーム(赤畠君島君出澤君浜君それに今は退職した重田君)が達成し、 佐藤さん大泉は2・3軍でこれを眺めていました。

 この時部員名簿に名を連ねてくださり、 後に重役として活躍された方々には、 小幡喬士氏小杉真史氏近藤泰治氏鈴木勲氏等がありました。
 この方々は部員としての直接の活動は少なかったのですが、 後に小幡氏が3代目・小杉氏が4代目の将棋部長に就任されました (ちなみに現在の川妻将棋部長は6代目です)。 近藤氏鈴木氏は将棋部員に深い理解を示してくださり、 おふたりとも「富士通杯達人戦」で、優勝賞品のプレゼンテーターをされました。

 小幡氏は1983年に統括部の将棋大会を開催されて、 席上蛸島彰子女流名人(当時)に二枚落ちで挑戦して勝利をおさめられ、 蛸島名人の推薦で初段免状を取得されました。 この勝利を記念して蛸島名人から「続ければ人生」の色紙を贈られ、 以後禁煙を続けておられることは有名な話です。 またこの色紙は長く重役室に飾ってありました。
 小杉氏近藤氏は課長時代に職団戦に参加されて勝ち星を挙げられ 「管理職勝利3・4号」でした。 1号は石井康雄氏、2号は新屋忠氏です。

 しかし、場所の問題やメンバーの業務多忙で組織だった練習は難しく、 部員の育成より強い人を社内から捜してきて試合に出るという変則的な状態が続きました。 この間、川崎は組織的な練習をしており、 その中で大きな進歩をされたのが赤荻さんだろうと思います。

1-5.徐々に部員が

 鶴田光男さん(3代前の将棋部長)は1963年に入社 ・鈴木新治郎君(川崎前々将棋部長)は同期入社ですが、 当初はあまり交流がありませんでした。 川崎部員としてご活躍だったのでしょう。 また佐藤さんも川崎へ移られました。

 その後、60年代後半から70年代前半にかけて甲木俊雄君(川崎前将棋部長) ・島元勇君(本社将棋部3代目幹事長) ・脇坂哲夫君(今は退職) ・久米宏君(同・ネット将棋で活躍) ・木戸睦明君橋口幸治君等学生将棋の強豪が次々入社しました。
 強くなり選手層も厚くなりましたので、 職団戦はA級の安定勢力となり、さらに複数チームを参加させるようになりました。 会社からはチーム数が増えても、全チームに参加費の支出を戴くことが出来ました。 人事部門のご理解・ご配慮に加え、 新屋部長のご尽力・社内で枢要な地位に進出された発足当時の部員の皆様方の有形・無形のバックアップ、 もちろん部員各位がよい成績を挙げられたこと、 これらの総合的な効果と思います。

 その後1970年代後半には2軍もA級に上り、 さらにあのリコーも当時は達成できなかったA級3チームも実現しました。 しかも、木戸君を大将とする3軍が準優勝し、 層の厚さを見せつけました。
 この時に私が「5人団体戦は無理だが15人ならリコーにも勝てるかも・・」に近い意味のことを言ったことで、 リコーを発奮させて(「怒らせて」の節もありました)しまい無敵リコーを作らせてしまったようです。 当時はA級の準優勝やベスト4は毎期のことでしたが、 優勝にはどうしても届かず、新屋部長の予言(佐藤大泉は・・・)が脳裏をかすめました。

 1980年代になると、 トーナメントの職団戦にあきたらず、任意のチームが集まってリーグ戦を始めました。 自称「職団戦のメジャーリーグ」です。 6社戦(新日鉄・日立・東芝・国鉄=当時・三菱重工・当社)、 4社戦(日立・東芝・リコー・当社)が主なものです。

 6社戦は新日鉄が中心になって開催され、 当初は新日鉄・日立・東芝・国鉄の4社戦でしたが、 国鉄がいつも負けてばかりとのことで参加辞退されました。 3社ではリーグ戦は難しく、 困った新日鉄が将棋部顧問の加藤一二三九段に相談され、 加藤九段が富士通を指名されて、新日鉄から私に連絡が入りました。
 1982年は15人団体戦で初参加の富士通が優勝しました。 上位陣は黒星先行でしたが9将以下の圧倒的強さでの優勝でした。
 これをみた国鉄が復帰を希望されたので、 偶数チームとするために米長九段ご令兄の率いる三菱重工に声をかけ1983年からは6社戦となりました。
 今は交流が途絶えましたが、 加藤九段にご親交いただいていた頃の思い出です。 またこの頃の新日鉄の重鎮石河(いしこ)氏のご令嬢は今日富士通でご活躍なのも何かのご縁でしょう。

 その頃、電波新聞が電機業界の個人戦を開催されました。 富士通からも参加しましたが当時は個人戦には力不足でした。 そうした中、西下さんが1度決勝進出を果たされました。 決勝戦は強豪徳竹勝治氏(早大→日立)に惜敗でしたが、大健闘と思います。

 本社に続いて蒲田にも将棋部を立ち上げました。 幹事長を西村君(フルネームを失念してすみません)にお願いし 米田徹君(千歳高校時代、高校将棋団体戦全国大会に出場し、 その時の大将は沼春雄六段)や多賀康夫君(後に富士通大分ラボ) ・坂上重一君等が参加しました。 近くに在住の藤森奈津子女流を何度か招いて和やかな将棋部でした。

 1984年に大阪へ転勤したのを機会に、大阪にも将棋部を立ち上げました。 福井淳一郎君に幹事長をお願いし、 森島浩君稲井健郎君北村和弥君等が加わってくれました。 蛸島彰子五段が関西に仕事がある都度立ち寄ってくれて、 関西シスラボの和室等で指導してくれました。

 大阪将棋部発足を機会に山本愛さん野村幸伸君を中心とする明石工場将棋部との交流が始まりました。 福井君山本さんが知己だったことがきっかけでした。 このことで、今までローカルな練習中心だった明石将棋部が関東とも交流するようになり、 オール富士通将棋部の様相を呈している現体制の基盤を明石が作ってくれました。
 この成長については、鵜飼直哉工場長が大きく貢献・尽力されたのは後の話です。 この頃は大阪や関東との対抗戦で全く歯が立たないと言って過言でなかった明石が後年職団戦A級で勝利を挙げたのも、 この頃から続いた地道な活動の成果と思います。

1-6.強豪続々入社

 1988年に赤畠卓君が入社し、 1990年にかけて将棋部は大きな転機となりました。 学生将棋界から、 今までの強豪とは一格違う超強豪の島達郎君浜信一郎君出澤浩樹君喜多全好君重田君(今は退職)が入社したからです。 少し前に入社していた奥村友朗君の参加もあり、 富士通は従来の「A級安定勢力」を脱皮して強豪チームの道を歩むことになりました。

 FJBに将棋部が発足し、 職団戦初期に勝ち星を挙げられた小杉副社長自ら推進され、 中治一郎君が幹事長として尽力してくれたのはこの少し後の1993年頃でした。
 少し前の1992年頃にSSL将棋部との交流が始まりました。 鵜飼さんが明石工場長からSSL社長に転進され、 陣頭指揮のもとに吉井康和部長香川和幸幹事長吉岡信幸マネージャー等の尽力で富士通グループ将棋部の中核となりました。

1-7.最後に

 このあとは1994年の職団戦初優勝・S級初優勝・棚田真由美さんはじめ強豪の入社と書くことはたくさんありますが、 中谷君の要請の趣旨からここまでいたします。 なお、文中で部員の皆様のお名前を記させていただきました。 書きたいお名前はまだ多数ありますが、 全部書きますと紙面が人名で埋まってしまいます。 ここにお名前を記載できなかった方々にお詫びさせていただきます。


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