2015/2/24 記:中筋 一郎
(文中で法人名は敬称を略させていただきます)
1982年に入社して富士通将棋部でお世話になり既に30年以上たちました。
会社生活も終わりに近いことから?、1980年代を中心に私が経験した将棋の世界、富士通将棋部を懐かしんでみます。
強豪になれないレベルの将棋部員の個人的な思い出をつらつらと綴りますので、気楽にお付き合い頂ければ幸いです。
タイトルは、「将棋ジャーナル」の1987年1月号より開始した過激企画のタイトルから借用しました。 畏友である白井康彦元学生名人・朝日アマ名人戦の12番勝負です。
高校1年の時、2ヶ月ほど入院し、たまたま将棋世界を手にしました。 高校時代は、実戦経験はなく、近代将棋の詰将棋(短編コーナー)を解けるぐらいの棋力でした。 受験勉強の合間に詰将棋を楽しんで気分転換をしていました。
大学入学後、無謀にも将棋部に入り(多分2〜3級レベル)、白井氏に出会いました。
高校時代から強豪で有名でしたので、将棋ではまったく相手になりません。
ただ、彼は、死ぬまで飲むタイプでしたので、勘定奉行兼アッシーとして親しくさせていただきました。
大学の団体戦はB級レベルでしたので、白井氏の個人戦を観戦するのが楽しみでした。
アマチュア名人戦東京都下予選や新宿の賞金大会でかの小池重明氏との決勝戦などは鮮烈な思い出となっています。
当時、白井氏や小池氏、アマチュア時代の櫛田陽一氏(プロ六段・引退)の延々と続くデスマッチを間近に見て別次元の強さを肌で感じましたので、自分の将棋は趣味として楽しむレベルだなと、この頃から悟ってしまいました。
卒業時は三段レベルだったと思います。
ちなみに、大学時代の同期の息子さんが現役プロ八段です。
そんなに強くなかった彼からプロ棋士の息子が生まれたかはいまだに謎です。
大学を卒業後、1982年に富士通に入社し、半年ほどして将棋部にお世話になります。5年ほどは将棋も真面目に?取り組みましたが、忙しくなったこともあり、いったんは将棋熱も冷めてしまいました。
1992年にシンガポールに駐在します。ここで将棋熱が復活します。
など、自分の将棋人生では、もっとも貴重な時間をすごすことができました。
ここでも、飛車落ちで下手に3連勝は許さないプロの先生の厳しい技の洗礼をあびましたので、やはり自分の将棋は楽しむレベルだなと実感しました。
1982年富士通に入社後は、財務部に配属され、そろばん、手書台帳付けの仕事をしました。 ちょうど、部門単位のIT化が始まるころで、富士通が「丸の内の不夜城」と呼ばれた時代です。 月100時間の残業は当たり前の時代でした。
寮に入って半年ほどしたころ、同じ寮の宮崎シュンショー君経由で木戸さんから入部のお誘いを受けました。 忙しい職場でしたが、金曜日は、定時に終えて、丸の内から川崎工場に向かったことを懐かしく思い出します。
又、入部前に、社内の将棋大会があり、丸の内事務所代表として参加しました。 決勝でシスラボ時代の川妻さんと対局した覚えがあります。 蛸島先生解説付きで、今思えば贅沢なデビュー戦を経験することができました。
ちなみに、1982年は、名人戦史上に残る空前の名勝負の末に加藤新名人が誕生し、翌1983年6月には、21歳の谷川浩司新名人が誕生しています。 隔世の感を禁じえません。
富士通将棋部に入部後から約5年間、茶室(※注記 以前の体育館横にあった例会場所)等で将棋、麻雀、お酒でご指導頂いた方々です。
特に、佐藤忠さん、甲木さん、橋口さん、小橋さん、安藤さん、後に佐藤啓くんは、ご一緒する機会が多く、非常に楽しい時間を持てた思い出があります。
以下は、それぞれの方への私の勝手な印象です。
ご不満な点はご寛容いただきたくお願いします。
書いているうちに色々思い出してきましたが書ききれません。
又、関西の将棋部の皆様をはじめ、名前を失念している方々は申し訳ありません。
80年代後半仕事が多忙になり、なかなか将棋を指す時間がとれず、次の皆さんは、当時は、お名前と顔がなかなか一致していませんでした。
金曜日の茶室定例会以外に結構大会があり、月1回平均で参加していました。
私は、将棋よりも麻雀狙いでした。当時は、2卓の場が立ちましたのでおいしかった?です。
が主なものです。
当時の富士通将棋部は、全国レベルの超強豪はいませんでしたが、強豪が多く層が厚かったので、それなりの好成績をおさめていました。 もちろん、リコーとプロセス資材が別格でしたが、大泉さんが「15人ならリコーに勝てる」と仰っていたのを思い出します。
私が、職団戦の将棋で唯一自慢できるのは、A級でリコーのN元アマ名人に雁木で勝利したことです。 当時は、「雁木でガンガン」の棋風でした。 もちろん、次の職団戦では、前に座られ実力どおりの結果になりましたが。
当時は、ネットの無かった時代ですから、会社の将棋部の活動、将棋道場、将棋雑誌で将棋を楽しむ時代でした。
実力からして、将棋大会への参加はあきらめていました。
この時代は、今から思うと信じられないくらい「将棋雑誌」が色々ありました。
「将棋世界」「近代将棋」「将棋マガジン」「将棋ジャーナル」「将棋クラブ」「(えい) 将棋賛歌」「将棋天国」「詰パラ」・・・。お気に入りは、「将棋ジャーナル」でした。
アマ強豪の棋譜が自戦記付きでたくさん載っている「将棋ジャーナル」は、三段クラスの私にとっては、とても参考になりました。 企画も、「アマプロ指し込み戦」「グラチャン戦」「くしだ君の武者修行」「美馬熊西遊記」などなどタイトルはうろ覚えですが、色々と面白いものが多かったです。 又、団鬼六氏がオーナーになった後の将棋雑誌とは思えない独特の世界観はまさに緊縛?の世界でした。 将棋道場は、通勤経路にあった「渋谷西口(当時の奥村さんの根城?)」や学生時代に通っていた「立川南口」「吉祥寺」などに通っていました。 「吉祥寺」の日曜トーナメントでは、何回か優勝した経験があります。
80年代の半ばでしたか、当時住んでいた溝の口に将棋道場がオープンし、真剣師(若い人知っているかな?)ぽい人が席主で、怪しげな将棋を指していたことを思い出します。 当時は、小池さん、新宿闇太郎さんなど将棋界にまだまだ怪しげな雰囲気がある時代でした。 私も、リスボン(新宿の将棋スナック)でお酒を飲みながら、真剣勝負を観戦していた経験もありましたので、席主と将棋を指した後、お酒を飲んだりして、結構親しくしていました。
1998年に帰任すると、茶室名人戦(※注記 現在開催場所が和室に変わって和室名人戦になりました)が始まっていました。 6年の時を経て、佐藤忠さんや赤荻さんの定年退社などにより、将棋部に知った顔が少なくなっていました。 甲木さん、小橋さんぐらいしか面識ありませんでした。 聞くとことによると、それ以前は廃部の危機もあり、茶室への参加者が一人二人の時代が長く続いたと聞いています。 お名前は、失念いたしましたが、どなたかが茶室の灯を絶やさぬ様、毎週かかさず参加されていたと聞き、頭の下がる思いがしました。
90年代後半、志田さんや広瀬(正)さんの入社・入部により、将棋部の活動も茶室名人戦を中心に活性化してきたみたいです。 記録を覗くと、私も、10期(1999年)から20期(2001年)の3年間参加ほどしているみたいですね。 こうした環境づくりは、志田さんをはじめ部員の皆様のご尽力の賜物です。
この2〜3年超強豪、強豪の入社が続き、富士通将棋部も大所帯となりました。 2014年S級での優勝も果たし、今後は、常にS級優勝が狙える戦力が整っています。
今後は、富士通将棋部も60名を超える大所帯となりましたので、どのクラスでも将棋を楽しめる層の厚い「富士通将棋部」らしく、前人未到の「全クラスで優勝する」ことを目標にご研鑽いただければと祈念いたします。